鴨南蛮を作ってみた

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さて、富士山麓裾野市下和田産の新蕎麦試食会です。まだ定員40名が埋まってないので、引き続き募集中です。

10月26日(土)午後2時

です。職人さんが2時に来て仕事を始めますので、食べられのは午後4時過ぎ。早めの夕食という感じか? 蕎麦職人さんの仕事を眺めながら、蕎麦前の酒とツマミを楽しんで下さい。玉子焼き、蒲鉾、天麩羅などを用意します。今回は有料です。一人1000円です。今回は定員制です。40名限定です。予約のない方は食べられません。メールでお申込み願います。なお、新蕎麦の香りを味わっていただくために、今回はもり蕎麦のみの提供となります。



なお、試食会会場は三島市広小路駅近くの、おいらの「犬小屋」です。犬小屋というのは通称で、おいらの仕事場です。いつも伊豆グルメ試食会やっているので、知ってる人は知ってる。今回は定員制で40名限定です。お申込みはお早めに。



昭和の高度経済成長期に一世を風靡した日本のコメディ・シーン(ドリフ、コント55号、ゲバゲバ90分等)はチャップリンやキートンとともに、特にマルクス・ブラザーズに大きな影響を受けたであろうことが分ります。本国アメリカでの公開時は興行的にあまり振るわなかったと聞きますが、一部特撮も飛び出すあまりにシュールでナンセンスなギャグや「風刺」を超えた戦争のハチャメチャな茶化しぶりに、当時の「善きアメリカ人」達はどう反応すべきか分らなかったのでしょう。ホント、全く狂ってますよ、3兄弟(爆)
風刺自体を風刺しているかのような過剰。それは「方法論」というよりこの人たちは「素」がそうなのでしょう。
二十年以上前にビデオで一度観て以来、忘れられない最高のコメディ映画でした。マルクス兄弟の映画は本作の他に「マルクス捕物帖」しかまだ観ていないのですが、おそらく今後も本作が個人的にベストであり続けるのではないかと思います。
さて、こないだ「返し」作ったんだが、それから3日たって、やっと使えるようになったわけで、鴨南蛮を作ってみた。蕎麦は、スーパーで市販の生蕎麦を使います。日本の農林規格では、蕎麦粉が30パーセント以上含まれていれば「蕎麦」と呼んでいいそうで、成分表を見ると、確かに「小麦粉」が先に書いてある物が多い。成分量の多い方が先に来るので、小麦粉50パーセント以上という事ですね。そもそも小麦粉と蕎麦粉以外にはたいした物は含まれてないわけで、少なくとも蕎麦粉が先に書いてないと、蕎麦粉50パーセント以上にはならない。まぁ、良くてもせいぜい蕎麦粉50パーセントだ。マックスバリューで深大寺そばというのを買って来たんだが、茹で時間は2分です。

鴨南蛮なので、鴨肉です。中国産の合鴨で、ロースです。カタマリのまま、フライパンで焼きます。皮を下にして焼くと、脂が溶けて出てくる。火が通らなくていい。脂が出たら、トレイに移してオーブンへ。200度で15分。引き続き脂が溶けて出るので、脂だけをフライパンに戻す。鴨の脂で太葱を焼きます。鴨のブロックはスライスすると見事に中がミディアムレアのピンクで、それだけでも美味しそうw 

ツユは、鴨の旨味に負けないくらいドッシリした旨みが必要なので、宗田節、鯖節、かつお節のMIX。昆布も使う。濃い出汁を引いて、返しと合わせる。三日間寝かせた返しは、醤油臭さが抜けていい感じだ。しっかりした旨みが濃厚で、なおかつ塩っぱくない、いいツユが出来ました。

さて、問題は麺だ。なんかネバネバして美味しくない。説明通りにちゃんと2分間茹でたんだが。このところ、上等な手打ち蕎麦ばかり食い過ぎたので舌が奢っているのか? むしろ乾蕎麦使った方が良かったかも知れない。

さて、ところでネットには青空文庫という物がありまして、著作権の切れた文献をデジタル化して公開しているわけです。そこから蕎麦に関係したエッセイを2つほど。まずは、詩人、津村信夫の「月夜のあとさき」。昭和19年に亡くなっているので、昭和初期の戸隠が舞台だと思う。

 蕎麦を打つのは、家内総出であって、少年と雖ども心得ている。もっとも、少年少女の場合は、蕎麦打ちを手伝うひまに、こっそり蕎麦粉を盗んで、あたかも粘土細工のように牛や犬の動物を作ったり、鳥居をこさえたりするのが、楽しみなのである。蕎麦の玩具は戸隠の子供部屋の雛様である。
 坊の娘が片方の手に蕎麦を入れたザルを持ち、一方の手にお膳を持って、月のいい晩にやってきた。
「お蕎麦がおいやなら、こちらに御飯も御座います」
 蕎麦は色が黒いが、口触りがまことによい。山中の夜はそれを口にすると、何かひやりとした感触がある。
 娘はいつも着物を長目にきるので、歩くたびに、かすかな衣ずれがする。書院作りの広い間を二つ三つ通りすぎて行く足音は、まるで燭の火で足もとを見つめて行く、昔の人のそれのようである。
「お蕎麦を召上ったら、御庭に出て御覧なさい」と云う。「私共もこれからお月さまを拝みに参ります」
 山中の月の出は晩(おそ)いときいたが、庭に出て見ると、いつのまにかうっすらした光が射していた。海抜幾千尺、庭の萩の花が咲き乱れていた。一つびとつの小さな花は秋の眸のように鮮やかであった。

婆さんがうどんを打つと、そばでうどん粉練って、動物とか作っていたというのは、おいらの身近でも聞いた事がある。日本のどこにでもあった光景だろう。蕎麦の味についてはひと言も触れられてないんだが、いかにも美味しそうだ。

もう一本は、村井政善という人の文章です。この人は栄養研究所の研究員だったそうで、鰻の蒲焼と梅干しの食い合せがホントに相性が悪いのか、一日三食、連日、蒲焼きと梅干しを食べる実験なんぞやってますw ここでは、「駄蕎麦」と呼ばれた、二八蕎麦、二六蕎麦について。二八というのは、成分ではなく、値段のことだそうで、二八は16文、二六は12文です。

 蕎麦は手打ち、うでて「しゃっきり」と角があって、おつゆをかけて出されてもきらりと光っていたものであります。「かけ」の丼は八角の朝顔形で、蒸籠も今のとはちょっと違って、あの四角の端に耳が出ていました。つまり井桁に組んであって、あげ底に細い竹が薄く簀のように作りつけになっていました。この頃は、竹の簀もしごく手軽になっていますが、あんなものでなかったのです。
 手で粉をこねて延し、さくりさくりと切った蕎麦でありました。今のように機械でずるずる出て来るのと違って風味がありました。「笊蕎麦」というのは、通常のところにはなく、竹あみの一枚笊へ盛って出すので、海苔なんかかかっているものではなかったのです。神田けだものだな(今の豊島通りを右へ廻った辺)に「二六蕎麦」という名物、つまり十二文でなみのところより四文安いが、またその安いざつなところに一種の味があって、蕎麦食い達はよく出かけたもので、なかなか旨いものでありました。
 四谷の「馬方蕎麦」も評判で、真黒いがもりがよくって、一つで充分昼食の代りになったのです。四谷も今でこそ東京一という新宿のような結構なところとなったのですが、あの頃は「馬方」ばかりがぞろぞろ通って、並の人よりこの方の人が多い位であったのであります。そこで馬方が休んではこの蕎麦を食べるので、遂に「馬方蕎麦」と有名になってしまったのであります。

「けだもの店」の二六蕎麦とか、四谷の「馬方蕎麦」とか、今となっては想像するしかないんだが、話を聞くだけで蕎麦喰いにはたまらないモノがあります。

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