三嶋大社は箱根系原住民の監視施設

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初詣の季節で、三嶋大社からおいらの家のところまで、延々と渋滞しまくってます。三嶋大社は旧官幣大社なので、格が高い。普段から、伊豆中の人がお参りしてます。中伊豆出身の漫画家、中村光さんも、2006年に自作のアニメ化を願って絵馬を奉納してますw でも、神社の歴史そのものはさほど古くない。平安時代にこの地に招聘されたものらしい。当時、東海道は足柄を通っていて、御殿場線と同じようなルートだったんだが、富士山の噴火があって、それを避けるために箱根越えルートが開発された。ところが箱根には縄文由来の「まつろわぬ民」が住んでいて、軟弱な都会人がやすやすと旅行できるような環境にはない。そこで、そうした箱根原住民を「監視」するための施設として作られたのが、現在の「三嶋大社」ではないのか? というのが、おいらの結論です。そして、伊豆には箱根だけではなく、海岸にも海洋系の縄文系が住んでいた。海の神であるはずの「三島神」が内陸である三島という地に居を構えている理由というのも、そうした発想で捉えると理解しやすい。

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初出/2007/10/9

さて、いつまでもズルズルと引きずっていてもしょうがないんで、そろそろ結論を出そう。三島はどうやって三島になり、今の三島大社が出来たのか、という事なんだが、歴史に出てくる伊豆というと、三島より熱海のほうがずっと古いわけだ。熱海には鎌倉時代に沈んだ海中遺跡があるそうなんだが、その研究をやってらっしゃる方のサイト。日金山についての考察なんぞも面白いんだが、この人によると、古代の伊豆国府は、まず、熱海に作られたというわけだ。

伊豆國については大変に古く、応神天皇の時に伊豆國に10丈(三十メートル)の船を作らせ、神功皇后から更に後、伊豆國造が置かれた4世紀中期以前より有ったと考えられます。大化の改新の律令制国家形成によって伊豆國は実質的に解体し、律令制国家での租税徴収(特に稲の徴収)に符合させる為の準備として駿河國に吸収統合されてしまう。尚、伊豆國は大半、特に東伊豆地区は稲作に不向きもあり、伊豆各地の郡里制度や班田収受法による収税調査が開始された。律令制租税収受が出来るとされるまでに30年以上の年月が掛かり、681年に駿河國から分離され、新生「伊豆國」となる。一つだけ言えるのは大化の改新に於ける反体制の勢力と見る事が出来るが、いずれにしても中央の従属に対して反対し、従わなかったと思われる。

当初の大和政権というのは、ごくゆるやかな連合であって、その権力というのはさほど強力ではない。交易みたいにして特産物と都の産品を交換する程度のモノだったんだが、大化の改新で米中心の支配体制に移行する。ところが、熱海をはじめとして東海岸というのは、今でもほとんど米なんか獲れないわけだ。伊豆で古代から稲作していたのは、主に田方平野だ。

では、何で三宅島から現在の三島へ移ったかですが、それまでに有った足柄道が富士山の噴火で閉鎖され、急遽箱根道が整備される事となった。そのために関所としての社(三島明神)を設置し、新たなる街造りと関所造りを行ったと思われる。しかし、大化の改新に伴って伊豆國は駿河國に統合されてしまう。後に再び伊豆國が戻されるが、二郡に分かれてそれまでの伊豆の國府であった阿多美から現在の三島へ移されてしまうが、朝廷の思惑によるものか大仁に伊豆國の國府である田京を中途半端に造っている。

894年(寛平4)紀長谷雄、伊豆國の國府長官赴任の話が残るが、殆ど阿多美に滞在。
この当時、国府は三島と思われるが、滞在記録が三島には残っていない! 本当なのか?

延暦の大噴火は西暦800年~802年なので、その頃に三島大社が出来たというわけだ。その頃には、もともと熱海にあった国府が田京経由で三島に来ていて、大穀倉地帯である田方平野の支配体制が完成していた。伊豆の新勢力は、田方平野の稲作をバックボーンとしていたのだ。で、たまたま面白い文献を見つけた。伊豆の古い瓦が、どこで作られたのかを調べた人がいるわけだ。瓦というのは重いので、それほど遠くから運んで来るわけに行かない。

私たちは2年間の研究で、伊豆国内にある鎌倉時代までの「瓦葺き屋根を持つ建物」7軒のうち6軒から152点の瓦を手に入れ、分析しました。「宗光寺廃寺」の2点(静岡県西部方面で作られた)を除く150点すべてが「花坂古窯群」で作られていたことがわかりました。つまり、「伊豆国内」の古代瓦の産地は、「花坂古窯群」として良いでしょう。

花坂というのは、伊豆長岡だ。伊豆中央道が通っているあたりなんだが、中央道のトンネル工事の時に大量の粘土が出てきて、おいらの知人の陶芸家が貰いうけている。この粘土は耐火度が低いので、普通の釉薬が使えない。なので、その陶芸家は低い温度で融ける成分の釉薬を使っているんだが、屋根瓦を焼くには、むしろ耐火度の低い粘土のほうが使いやすい。ちなみに伊豆長岡というのは、頼朝が流された蛭ケ小島のすぐ隣だ。

奈良時代から平安時代に移行するにつれて、伊豆では田方平野の稲作が経済の中心となり、中央の権力が出先機関としての国府を三島に作り、田方平野を支配するようになる。古代の海洋民族の末裔どもは稲作をせずに、奈良時代になっても箱根山で狩猟生活をしていたり、西伊豆で海賊やってたりするんだが、そんなモノはホッタラカシだ。税金取りに行っても逃げちゃうので、どうしようもない。ところが、延暦の大噴火で情勢が変わる。どうしても三島から箱根を経由しないと東国に行けなくなってしまう。で、この「まつろわぬ民」というのが問題になってくるわけだ。

彼らは、箱根権現とか日金山とか大瀬神社なんぞを拠点としていた縄文系民族で、山や海で生きている。箱根にもうじゃうじゃいるわけだ。で、田方平野を統治するだけなら国府や国分寺だけでもいいんだろうが、「まつろわぬ民」をなんとかしないと東国へのライフラインが確保できない。そこで、平氏系の権力に近い関係のあった三島明神をわざわざ誘致して原住民系の旧勢力・八幡社を追い出して国府の隣に置いたのではないか、とも考えられる。頼朝は源氏再興を願って三島大社に日参したと言われているんだが、おいらの考えでは反対であって、国府のとなりの三島大社に毎日顔を出して、謀反を企んでいない事を証明するのを義務付けられていたのではないか、と思うわけだ。まぁ、少年院出たものの、保護司のところに顔を出さなきゃならない非行少年みたいなもんだな。実際、頼朝は三島大社の監視の目が緩くなる夏祭りのドサクサに乗じて挙兵し、縄文系原住民の神、箱根権現の別当に助けられている。

そもそも、神社とかお寺とかいうモノは、権力が民衆を支配するための出先機関として作られたのではないか、と、おいらは思うんだけどね。

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