伊豆の国府

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初出/2007-10-08

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このシリーズの過去ログは、「伊豆の歴史について」というカテゴリに収録されております。まだまだたくさんエントリがあるので、順番にアップして行きます。

「東関紀行」という文献があるんだが、中世三大紀行文(ほかに海道記、十六夜日記)のうちの一つといわれ、作者不詳だが、仁治3年(1242年)の紀行を書いていると言われているわけだ。これに、三島大社と伊豆の国府が出てくる。

伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらくおとづれて庭の気色も神さびわたれり。この社は伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞く

で、十六夜日記なんだが、こちらはちょっと長く引用してみる。どうせ著作権切れてるしw 当時の東海道の様子が判る文章だ。

廿七日、あけはなれてのちふじ河わたる。あさ川、いとさむし。かぞふれば十五せをぞわたりぬる。
冴わびぬ雪よりおろすふじ河の川風こほる冬の衣手
けふは、日いとうらゝかにて、たごの浦にうちいづ。あまどものいさりするをみても、
心からおりたつたごのあま衣ほさぬ恨と人にかたるな
とぞいはまほしき。いづのこふ(伊豆の国府)といふ所にとどまる。いまだ夕日のこるほど、みしまの明神へまゐるとて、よみてたてまつる。
あはれとやみしまの神の宮柱唯こゝにしもめぐりきにけり
おのづからつたへし跡も有ものを神はしるらんしき嶋の道
尋きてわがこえかゝる箱根路を山のかひある知べ(*しるべ)とぞ思ふ
廿八日、いづのこふをいでてはこねぢ(箱根路)にかゝる。いまだ夜深かりければ、
玉くしげ箱根の山をいそげども猶明がたき横雲の空
「あしがら山はみちとほし。」とて、はこねぢにかかるなりけり。

で、伊豆の国府なんだが、コレが三島のどこにあったのか不明なのだ。三島大社の近くだろうと言われているんだが、定かではない。定かではないと言えば、実は三島大社の由来というのもよく判っていないところがあって、たとえば大三島の大山祇神社なんだが、

日本各地に一万社余りある山祇神社、三島神社の総本社とされるが、一部の三島神社(主に東国)については静岡県の三嶋大社の分社もある。また、三嶋大社自体を大山祇神社の分社とする説や、逆に大山祇神社の方が三嶋大社の分社とする説があり、まったく別の神社とする説もある。

前のエントリでおいら、書いたんだが、もともと三島大明神というのは伊豆七島をウロウロしていた海洋民族の神なのだ。ところで神というのは何なのか。日本における神というのは、ユダヤ教起源の一神教の神と違って、自分の先祖だったり、自分が滅ぼした敵だったりするわけだ。現実に存在する人間以外のタマシイの存在を全て、神と呼んだのかも知れない。で、改めて三島大社の由来だが、

創建に関しては極めて古く不明であるが、三宅島(現 富賀神社)→下田・白浜海岸(現 伊古奈比咩命神社)→大仁町(現 広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承がある。他に、伊予国大三島の大山祇神社からの分社との説もある。

延喜式神名帳には「伊豆国賀茂郡 伊豆三島神社」として記載されている。延喜式が書かれた平安時代初期には賀茂郡の下田・白浜海岸に正妃・伊古奈比咩命を祀る神社と並んで建っていた。白浜海岸には現在、伊古奈比咩命を主祭神とする伊古奈比咩命神社がある。

現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府の近くに新宮として分祀されたものであるとされる。

というわけで、今の三島大社を脳裏に浮かべて判断してはいけない部分があるわけだ。今の三島大社は、平安中期以降、国府のすぐそばにわざわざ作られたモノである、というのがポイントであって、元は八幡系の神社があった。それを追い出して今の三島大社が出来たのだ。で八幡神社なんだが

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雨が降っているんだが、徒歩五分なのでちょっくら行ってみた。ついでに肉屋でコロッケも買う。ご覧のように、あまりパッとしない神社だ。おいら、このあたりで生まれ育ったので昔からよく知っているんだが、昔からずっとこんな感じで、雰囲気が薄暗くてひと気がない場所だ。行ってみて気がついたんだが、境内に天神社がある。

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ここにある天神社は、いつからあるのか判らないというほど古くからあるようなんだが、ここでハタと気がつく。天神さんというのは菅原道真公をおまつりしているわけで、いわば、罪を得て島流しにされた罪人を神さまとして拝んでいるわけだ。これ、日本独特の風習で、祟りを恐れて神として拝むわけだ。コレが、三島大社に広大な敷地を乗っ取られた八幡さんにあるというのもまた、味わい深いモノがあるわけだな。いわば、平安時代になって伊豆にも国家体制が浸透してくる中で、既得権益を奪われた「抵抗勢力」や造反勢力の拠点だったのではないかと思われる。で、八幡さんといえば、そらもう、源氏の守り神なわけだ。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。

まぁ、八幡さんというのもよく判らない神さまなんだけどね。で、たまたま今日の毎日新聞を見ていたらこんな記事が出ていた。 私の3作:民俗学者・谷川健一さん/中 「青銅の神の足跡」 というんだが、柳田國夫の民俗学が稲作文化中心に偏りすぎているという批判なわけだ。まぁ、柳田は 農商務省農務局農政課に勤務 早稲田大学で「農政学」を講義するという経歴で、貴族院書記官長までつとめるなど、長く役人をやっていたので無理もない部分もあるわけだ。あの時代にしてみれば、柳田のやった仕事というのは実に革命的な物なので、日本の文化人類学というか民俗学というのは、まだまだ「柳田のやり残した仕事を追及」しているわけだ。で、

 ところが、タケルの足跡を実地にたどり、地名や伝説、信仰、神社の由来、氏族名などの伝承資料を丹念にほぐしていくと意外な事実が続々判明した。タケルの足跡は「ことごとく銅や鉄や水銀などの精錬に関係をもつ。ヤマトタケルの最晩年の悲劇、それは古代の金属精錬集団の悲劇の反映にほかならなかった」。足の悪化の具合も水銀中毒の症状そのものだったのだ。

 同じように金属民の足跡を全国に追い、悲劇だけではなく、特異な技能者たちが躍動していた古代像を浮かびあがらせることができた。

 しかし、8世紀ごろを境に彼らは稲作民に圧倒されてゆく。金属民の伝承も、後には稲作民のものにすり替えられてしまったようだ。それは稲を重視する天皇制の確立期とも重なる。「特殊な能力を持つがゆえに珍重されてきた金属民も、今度は特殊なるがゆえに阻害されていった」

稲作文化をその中心にした民というのは、まぁ、言ってみれば国家権力の飼い犬なわけだ。前から言ってるように、農地に縛られる農民というのは逃げられない。木地師とか鍛冶とか漁師とか猟師とかそういう連中は、税金払えと言うと逃げてしまう。国家権力にしてみれば、住所不定の連中を追いかけるより、定住している農民を絞った方が効率が良いわけだ。なので、国家権力が強くなると、システムが農耕中心に組み直される。それが、谷川氏が言っている「8世紀ごろを境に彼ら(金属民)は稲作民に圧倒されてゆく」という事なんだな。で、伊豆の国府がどこにあったのか、なんだが、とりあえずソレも近所なんで、ちょっくら見に行ってきてから続きを書きます。

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