二人の英雄の物語

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日本は、アジアの多くの国の独立運動に関わっている。欧米諸国がアジアを植民地にしようと画策していた時代に、アジアでは日本だけが、他国を救うために立ち上がり、政府だけではない、多くの民間人が、それぞれの立場で独立の志士たちへの援助を惜しまなかった。それはやがて、第二次世界大戦にまで繋がって行くんだが、日本は戦いには敗れたものの、アジア各国の独立という意図は遂げられた。中国や韓国以外のアジア諸国で、日本が慕われているというのも、そうした先人の偉業があったからこそです。ネトウヨも韓国と残念プロレスばっかやってないで、アジアの独立運動に日本が与えた影響をもっとしっかり勉強してくれ。



11月に入って毎日新聞の静岡ローカルなんだが、「二人の英雄の物語」という記事が連載されているわけです。
 日本国内より、ベトナムで有名な日本人がいる。現在の袋井市出身の医師、浅羽佐喜太郎(あさばさきたろう)(1867-1910年)だ。明治時代、ベトナム独立運動の英雄、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867?1940年)らベトナムの青年が危険を冒して闘争準備のため来日した際に、政府の厳しい監視の中、物心両面で彼らを支え続けた。来年の日越国交樹立40周年を前に、両国友好の懸け橋となった2人の物語を紹介する。
浅羽佐喜太郎の墓の脇には、そのファン・ボイ・チャウの建てた碑があり、そこにはこう刻まれている。

 《碑文訳》
われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。
公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。
思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。
蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。

蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。
我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年
          大正七年(一九一八)三月 越南光復会同人
さて、この人物なんだが、Wikipediaによれば、

ファン・ボイ・チャウ(ベトナム語:Phan B?i Chau、漢字:潘佩珠、1867年12月26日 - 1940年10月29日)はベトナムの民族主義運動の指導者。

10代の頃から反仏独立運動に参加するようになる。1904年、阮朝皇族のクォン・デ(C??ng ??、彊柢)を盟主として「ベトナム維新会」を結成し、武器援助を求めるべく1905年に来日した。亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(トンズー運動)を興した。しかし、このような動きに危機感を抱いたフランスは日本政府に働き掛けて、1909年に国外退去にさせる。その後中国に渡り、1912年に広東でベトナム光復会を結成した。武力によるベトナムの解放を目指したが、大きな成果は得られなかった。

1925年、上海でフランスの官憲によって逮捕され、ハノイ(河内)で終身刑を宣告される。しかし、ベトナム国内の世論の反発を受けて恩赦。フエ(順化)に軟禁されたまま没した。
ベトナムを密出国して日本に来たファン・ボイ・チャウは、犬養毅に「武装蜂起より先に、人材を養成しろ」と説かれる。その際の状況です。

ファン・ボイ・チャウは清国戊戌(ボジュツ)の政変で日本に亡命中であった梁啓超を横浜に訪ね、在野の政党リーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることは無く、それより革命の為の人材養成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。筆談ながら、国の前途を賭けた激烈で清新な議論に、同席した柏原文太郎は三国志の英雄の話を聞くようであったと、チャウの人物に大きな魅力を感じています。
この頃のベトナムは中華文明圏だったので、インテリは日本人と筆談が出来たわけです。

 日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、「ベトナム亡国史」、「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と書き上げベトナムに送り込みます。これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため出国してきます。東京同文書院はこれらの留学生のために教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。最盛期の1908年(明治41)には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学んでいたと言われます。
ただ、無知蒙昧な土人が怒り狂ったところで、独立は成し遂げられない。むしろ犠牲を増やすだけだ。そこで、まずは革命を担う人材を養成する事だ、というので、ベトナム独立革命は日本から始まる。ところが、日本は日仏同盟を結んだために、フランスからの強い圧力を受けて、こうした留学生を追放せざるを得なくなる。そこで、ファン・ボイ・チャウが頼ったのは、篤志家として知られた浅羽だった。

 ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。が、朝持たせた手紙の返事が夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金が出てきました。(当時の東浅羽小学校の校長の月給は十八円であった。)その手紙には『手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』とほんとうに簡潔であるが、温情のある言葉が添えられていました。
浅羽佐喜太郎という人物は、医者です。もともと病弱で、空気の良いところが良いというので、浅羽町(現在の袋井市)に病院を作ったらしい。この人とベトナムとの関わりは、鰹船に便乗して密航して来たベトナム人の革命家を匿った事から始まっている。やはり筆談です。

遠州の海か、国府津の海か定かではありませんが、ちょうど今の難民のように、ベトナムの方が鰹船にかくれて乗りつけてきたことがありました。
 言葉は通じないが漢字が分かるというので、村人が祖父のところへ連れて来て筆談をしたことから交際が出来たというようなことも聞いています。ほかにも、汽車で来た人、船で来た人が集まって病院にかくまわれていたそうです。病院にはいつも数十人の貧しい人が住みついていて、その人々の中でベトナムの留学生がグループを作って生活していたそうです。母はベトナムの留学生がギターやバイオリンを弾いてくれるのが楽しみで、よく部屋へ遊びに行ったと話していました。2年以上居ついている人もいましたが、大部分の人が短期間で入れ替わったそうです。病院に迷惑をかけてはいけないという配慮が働いたのでしょう」。やがて、フランスの官憲から通告があって、前羽の駐在所の巡査が調べに来るようになったと母が話していました。実際に小田原警察の刑事に踏込まれたこともあってその後、祖父は何人かの留学生を梅山の実家に移転させたと聞いています。
帝国大学医科大学(現東大医学部)を卒業し、神奈川県小田原市で大規模な私立病院を開業していた浅羽は、貧しい人からは治療費を取らなかったという人で、国府津と浅羽町と二箇所で大きな病院をやっていた。ところが、本人も肺結核で、その当時は不治の病だったので、死期が近いのを自分でも悟っていたわけです。ファン・ボイ・チャウが頼ってきた時には、なので、自分の全財産をベトナム革命のために投げ出した。そして、ファン・ボイ・チャウの出国の翌年に亡くなります。

 日本を追われた潘に安住の地はなかった。上海や杭州・香港などの雑踏に紛れ、あるいは広西・雲南の辺境に潜み、執拗な追求と逮捕・監禁・獄中の生活など命を懸ける日々であった。
 1917年(大正6)5月、潘はひそかに日本へ来た。この7年前、1910年(明治43)9月25日浅羽佐喜太郎は43歳で亡くなっていた。これは、潘が日本を退去させられた次の年である。大恩ある浅羽先生はすでに亡く、潘は哀惜の念に堪えず、御恩に報いることも、感謝することもできなくなったことを痛感、先生の墓前に記念碑をと決意した。そして、つぎの年、それを実行しようと再び日本へ来た。
ところが、持って来た金では足りず、仕方ないのでふたたび中国に戻って金策をしてから再来日しようとしていたところ、村長が引き止める。そして、

・・・・・週末の金曜日、村の小学校へ授業参観に連れて行ってくれた。・・・・・児童たちに、日曜日に家の人を学校に連れて来て、私の話を聞くようにと言われた。・・・・・日曜日、私たちは村長さんの案内で小学校へ行った。大勢の父兄が集まっていた。村長さんは、浅羽先生の義侠の行いについて話し・・・・・私と李仲柏を紹介・・・・・。このお二人が千里を越えて、こんな田舎の村へ来て、浅羽先生のために石碑を建てようとされている。・・・・・私たちも手伝ってあげようではないか、と。万雷の拍手が起こった。さらに村長さんは、このお二人には石材と石工の手間賃を負担してもらうだけで、石碑の運搬と建設費は村で出そうではないか・・・と訴えた。学校いっぱいに賛成の声が・・・
そうして足りない分は地元の有志によって集められて、碑は完成した。

ところが、いつしか、そんな時代のエピソードも地元では忘れられてしまうわけです。

 「あなたたちのおじい様(佐喜太郎)がおこなったことは、気の毒な外国の人を助けてあげたのですから、立派なことなのですよ。でもその人は、フランス政府や日本の警察に追われているインドシナの偉い人だったのです。決して口外してはいけませんよ」と。チャウ達の退去から半世紀余、浅羽家ではこのことを固く秘し続けて来た。佐喜太郎の孫和子さんが、母ゆき江さんからきつく言われていたことである。
(佐喜太郎の孫浅羽和子さん談・・町史 柴田静夫)
浅羽の父というのは、明治維新の際に功績があった人物だったそうで、皇居前に土地を賜って役人になったのだそうで、そんな関係もあって、政府に逆らってベトナム人を助けたという史実はタブーとされていたらしい。長く、この史実は忘れられていたんだが、恩を受けた側は忘れない。今世紀に入って、ベトナムからの留学生や大使館関係者がボツボツとこの碑を訪ねるようになって、再び歴史の表舞台に出て来たのだ。ベトナムではファン・ボイ・チャウはホーチミンと並ぶ「国家の英雄」であり、浅羽の功績も「中学生まで知ってる」そうです。つうか、NHKはこういうのを大河ドラマにしろよ。

コメント(6)

ベトナムはおそらく「日本と並んで」w
数少ない「成功した社会主義国家」かなと考えていた。
一党独裁が悪で、民主主義が善と言うわけではない。
各国の国情にあった多彩な統治方式があってもいい。

たとえば今の中国に民主主義はまず無理だ。
民主化すれば崩壊し、世界経済に破滅的な影響を与える。
だから文明諸国は「気をつかっている」。
人民には気の毒だが、グタグダで腐敗した
拝金共産主義が一番穏当だと思う。

ただ国内の不満をそらすために領土拡張を
もくろむのはいただけない。そのための掣肘が不可欠。
最大のものはアメリカのプレザンスだが、
宿敵ロシアや、常に警戒している東南アジアの存在も有効だ。

特に同じ共産圏(死語)であるベトナムは重要。
史上、アメリカと中国の二つに勝ったのはベトナムだけだ。

最近日本企業もベトナムなどへの進出が著しい。
いっそ日本政府は古くなった巡視艇など、武器を
供与したらどうだろう。
はじめは沿岸警備などの目的で。
なにしろ、左派の大好きな共産圏だ。
非難もすくないと思う。そのために、日越友好ムードが
社会に広がるのはいいことだ。

いま熱いのは中東ですか。十月、シリアでは4500人以上が殺されたらしいし、政府軍の飛行場を反政府勢力が砲撃、其れを政府軍が爆撃中。シナイ半島では青年3人が警官に殺された報復で警官3人が殺され、デモまで起こっているとか。
戦前は貧富の差が激しく必ずしも理想社会ではなかったけれども、富める者の中には自らの社会的責任を果たそうとする名望家もあった。或る者は地元のために橋を架け道を拓き、或る者は亜細亜独立の志士を応援した。まだ明治維新/御一新という社会変動への幻想が強く残存していた。まるで戦国期への憧憬を元禄期あたりまで持ち続けたように。既に安定してしまった世に於いても滾る血を、切歯扼腕しつつ宥めるため、異国の志士への援助という行為に走ったのかもしれない。
さて中東動乱は、御約束通りにアラブの西側市場化に終わりドバイあたりでの五輪開催でチャンチャン、となるのか、はたまた……。

二十歳過ぎるくらいまでは、朝日ジャーナル等を読み、アジアの諸国の皆さんに~、などと思っていましたが、インドネシア、マレーシアなどなど中朝韓以外の国は、案外と日本の苦労を理解してくれて居たんだなぁ、と思う今日この頃です。共産党一党独裁なのでついつい億劫になって、あまりベトナムに関しては調べておりませんでした。しかし日本の敗残兵が勲章を貰っているなどという事は知っていました。フィリピンはどうか。米から独立の約束は勝ち取っていたようだが、そこへ日本軍が。よって日本は米比連合軍と戦うわけですが、先日アメリカの掲示板でフィリピン人が一生懸命日本を擁護してくれている発言を読んで、理解してくれている人は理解してくれているんだなぁ、と思った次第です。西と戦い米と戦い苦労しているからね。だからアセアンの旗って日の丸入って居る感じなんだな、と。
しかし華僑の進出と共に学会も教育界も抑えられていつまで親日が続くかは分かりません。また米加豪などもそのまま華僑の国になってしまうかもしれませんね。米が中国になる前に核武装は必要です。
ガックシ来るのは白人連中が日本=悪の公式で基本的に理解している事ですね。中朝韓以外のアジアの国々だけかもしれん。親日国は。
今東南アジアと南アジアへ進出し奢らず親身になって発展に寄与すれば日本はしばらくは安泰かも。

独裁だが、国家国民を第一に考えた体制。
民主主義の名の下で多数決により選ばれ、支持する者達の利益のみを追求する体制。

国民にとってどっちが幸せなんでしょうね。。。

って、銀河英雄伝説にそんな件があったような?

朝鮮人と比較するとベトナム人は光り輝いて見えるが、ベトナム人は普通なんであって、世界で突出して朝鮮人が異様なだけ、とも言えます。
とはいえアフリカとかいろんな低開発国を見るとやっぱり自力で植民地からの独立を成し遂げただけの事はあります。
まあ朝鮮人は一度も植民地からの独立をした事が無く、21世紀の御代にも歴史を偽造し続けなければならない世界でも突出した国なのですが。

英雄列伝といえば、アスリートばかり特集するNHK。レベルが落ちましたな〜。アスリートという呼び名もやめてほしいわw


>史上、アメリカと中国の二つに勝ったのはベトナムだけ

縦長密林は最強?

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