時代のディーバ、安田南

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プカプカという名曲、知っている人も多いだろう。歌っていた西岡恭蔵さんは1999年に亡くなってます。この曲に出てくる女のモデルが「安田南」だというのはよく知られていて、そもそもこの曲の別名が「みなみの不演不唱(ぶるうす)」というんだが、若かった西岡恭蔵は既にバリバリの売り出し中だった安田南に鼻先であしらわれたらしいw さて、そんな安田南とは何者だったのか?

早くから天才と呼ばれながらも、レコードデビューは遅い。1974年です。おいら、このアルバム持ってます。
中学の時、北海道から東京目黒区の区立中学校に転入する。一人で演劇部を創設するなど、活動的な生徒であった。成績も良い方だった。北海道の高校[1]を卒業後の1961年、18歳でTV番組、勝ち抜きジャズヴォーカル部門に出演し優勝、世界一周をした実力派。1964年頃から米軍キャンプでもステージに立つようになり、ジョージ川口とビッグ4、鈴木勲等を経てフリーに。

ジャズの枠にとらわれない奔放・個性的な歌唱スタイルで、1970年代に熱狂的な人気を集めた。なかでも、1977年に発表したLP『Some Feeling』は、矢野顕子『Japanese Girl』吉田美奈子『フラッパー』荒井由実『ミスリム』などと並び、日本の女性ボーカル史上に残る名盤と評価されている。

歌手活動以外でも、黒テントを中心とした舞台出演・ラジオのDJ・エッセイの執筆などにマルチな才能を発揮した。西岡恭蔵(元ザ・ディランII)の「プカプカ」(みなみの不演不唱)のモデルとしても知られる。
ジャズというとアドリブとかフリージャズとかあるんだが、一般的にボーカルではそんなにハメを外すという事はなくて、お行儀よく歌うものなんだが、この人は違う。自由奔放、まさに、「プカプカ」に出て来るあのキャラクターそのものです。この人、物凄いヘビースモーカーで、毎日缶入りピースをひと缶ずつ開けていたというから、バケモンですw 上記アルバムから、バイ・バイ・ブラックバード。



ところで、このアルバムは経費削減のためなのか、ジャズクラブで録音されています。ただし、客を入れてのライブではない。

そのライブハウスというのが「ロブロイ」というんだが、その店名でピンと来る人もいるだろう。作家の安部譲二が青山で経営していた店だ。当時、安部譲二は小金井一家のヤクザで、刑務所を出たり入ったりしている。このロブロイで普段、ピアノを弾いていたのが、高校生だった矢野顕子だ。

評論家、瀬川昌久をして「お行儀の悪いビリー・ホリデイ」と言わしめたシンガー、安田南のファースト・アルバム。デビュー前から人気を呼んでいた彼女だが、この処女作はその人気を裏付けるがごとく、青山のライヴ・ハウスのロブロイでの実況録音。
馴染みの山本剛率いるピアノ・トリオをバックに、「サマータイム」「バイ・バイ・ブラックバード」などスタンダード曲中心のレパートリー。自由気ままなはすっぱさと、確かな歌唱技法が結実した珠玉の歌の数々。
【旧品番:OFL-3002/初発売年1974年】
お行儀の悪いビリー・ホリデイというのも言い得て妙だが、そんな彼女が大きな時代の立役者になった事件というのがあって、日本のフォークシーンの象徴的なイベントとして伝説になっている中津川フォークジャンボリーが第三回で潰れた事件に彼女は大きく関わっている。

Wikipediaによれば、

メインとサブステージの分け方に出演者の間で不満が募り、出演順を巡ってトラブルが繰り返された。このコンサートの模様は2つのレコード会社によってレコーディングされ会場内にテレビが持ち込まれていたが、これに一部の客が"主催者側の姿勢に疑問あり"と騒ぎ始めた。

2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた吉田拓郎は、商業主義の乱入に反発し盛んに観客を煽った[1][2]。歌い始めた吉田のPAにトラブルが発生したが小室等と六文銭をステージに呼びマイク無しで演奏を続行。「人間なんて」等、2時間近く演奏を続けるうち熱狂した観客が増え小室の「メインステージに行こう!」の言葉が引き金となり観客がメインステージになだれ込んだ。

前日の雨で会場の環境も悪かった事もあり、観客の不満も鬱積しておりステージをベ平連系の若者を中心とした観客が占拠。トマトが投げつけられた安田南の演奏は中止され若者はマイクの奪い合いで混乱、スピーカーからほとばしる叫びは湖面から山肌を震わせる程であった。舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となりそのままコンサートも自然流会してしまった。

暴徒化した観客が岡林信康を目掛けて殺到したが岡林は会場に残るつもりでいた。しかしスタッフが説得し岡林を帰したため、より吉田との主役交代を印象付ける事となった[3][4][5]。なお、安田の後、ステージに立つ予定だったのははっぴいえんどだった[6]
この時、吉田拓郎が歌った「人間なんて」は、歴史に残る一曲です。ちなみにこの時に暴れたのは、

ジャンボリーの数日前、広島の被爆者慰霊碑に当時の首相・佐藤栄作が献花に訪れた際、火炎瓶を投げつけて機動隊から逃れ中津川まできた人たちだという[10]。
だそうですw いやぁ、熱い時代だったw この時、あがた森魚は自主制作盤を出したばかりで、サブステージにも上げて貰えず、道端で泣きながら「赤色エレジー」を歌っていたという証言があるんだが、なぎら健壱の言う事なのでどこまで信用していいやらw まぁ、1971年のこの時期、少なくとも吉田拓郎より、まだアルバムも出してない安田南の方が格が上だったのは間違いない。



二枚目のアルバムです。赤とんぼからフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンという変わったメドレーが聞けます。安田南は1990年代には姿を消してしまうので、意外に名前は知られてないんだが、時代を象徴するディーバであった事は間違いない。



そんな、安田南の消息を聞かなくなって10年以上が過ぎた。ある日、ネットに安田南死すという情報が流れたんだが、その詳細を知る者は一人もおらず、ただ、2009年に亡くなっていたという事しか、判ってないです。

コメント(18)

拓郎の「人間なんて」を最初に聞いたときは衝撃でした、自分の気持ちを歌ってくれていると思ったものでした。なにしろ、そのころの気持ちはララーラ・ラーララ・ラーラでしたから。今久しぶりに聞いてみて、やはり良いなと感じます。相変わらずララーラ・ラーララ・ラーラで進歩ないことを確認しました。

ぷかぷか、ってラリーマクニーリーのボジョレーベイビーの丸パクリなんだけどww

> 2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた
吉田拓郎は、商業主義の乱入に反発し盛んに観客を煽った。

この翌年の 1972年、吉田拓郎は「結婚しようよ」をヒットさせ、
商業主義に身を売った、と揶揄されるのであった (ωω
小生がギターを始めたきっかけもこの曲でしたが…

ディランⅡのお二人、西岡恭蔵さん、大塚まさじさん別々ですが
今は無き遠州掛川の「ひょうたん島」というライブハウスで拝聴した
のも、懐かしいおもひでであります。
ひょうたん島では、斉藤哲夫さんや高田渡さんにも遭遇しました。

最初は、西岡恭蔵・大塚まさじ・永井よう、の三人で「ザ・ディラン」というグループだったが、恭蔵さんが病気で抜けたため、大塚さんと永井さんで「ザ・ディランⅡ」となったというのが真相です。
「ザ・ディランⅡ」の1974年の解散コンサートで初めて安田南さんの生歌を聞きましたが、ジャズというよりソウルフルな歌唱だったのを覚えています。

その昔、新宿二丁目にあったレディデイというお店に、毎週土曜日、安田南さんのライブを聴きに行っていました。小さいお店なので通ううちにいろいろなお話しもするようになったりしましたが、「赤とんぼからフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンという変わったメドレー」が懐かしいです。

初めて聞いた。かなり若い?いいな。
ブルース、ジャズなど音楽シリーズいつも楽しみにしてます。
これからも期待大!

初めて歌声を聞きますが、バイバイブラックバードは雪村いずみに、サニーは矢野顕子に似ているように感じました。
ところで、よく分かりませんが、英語の発音がきれいじゃないでしょうか。それと、旋律を崩して(変えて)歌っているけど、音程はきちんとしているような、例えると、ビリー・ホリデイよりエラ・フィッツジェラルド。

当時のFM東京の看板番組、気まぐれ飛行船とアスペクトインジャズ。テンションの低い深夜放送が良い味の時代でした。

>道端で泣きながら「赤色エレジー」を歌っていた

いやいや、「赤色エレジー」は泣きながら歌うのがデフォでしょw
『いとしの第六惑星』なんか、泣きながら歌ってるところにグラッときます。

誰もコメントしていないようですが、安田 南といえば、京都 同志社大学での伝説的なコンサートがあります。1973,4年だったと記憶していますが、山本剛トリオをバックに従えて、ロックコンサートも真っ青の熱狂的ライブでした。何しろ失神する人まで出たくらいでした。
 その頃 安田南はしばしば京都に出没していて、いろいろなエピソードを、結構間近で見聞しました。まだ世に出ていないハナシも色々とありますが、知りたい方がいらっしゃるようならお話してもいいです。伝説を上書きするみたいで少し抵抗がありますが~。

安田南については、謎が多い。
死んだのは知ってるけど、どんな晩年を送り、なんで死んだのかも知らされていない。全盛期のエピソードも含めて、知ってる人は是非、書き込んでください。あとでまとめて再アップします。

安田南の京都  1 伝説の同志社大学コンサート

 京都での安田南を語ろうとすると、私には少なからず躊躇してしまう気持ちがあります。
 それはタブーといってもいいような、あまりわざわざ喋るべきではないような、そんな奇妙な感じです。 
 当時の同志社を中心とした京都(全国的にそうだったのかもしれませんが)の状況は大変厳しく、緊張感と暗澹たるムードが横溢していました。
 それがどういうものだったのかは追々語ることになるかもしれませんが、とにかくそんな中でも踏ん張って頑張っている少数の人達はいたのです。
 安田南を語る時には、彼らに触れざるをえません。
 彼らの中には公安警察に厳しくマークされていた連中もいたのです。
 安田南が非合法なことに関わっていたということではありません。
 然しながら、彼女の行動範囲のなかにしばしば彼らも関連することもありました。
 
 私が躊躇するのは、こういった人達に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせはしまいかという心配です。
 そこで私は、色々なことを共有している数少ない友人の一人と協議をし、その結果、迷惑になりそうな部分は削除してオープンにしよう、それにこんな風に安田南のことを少数の人間だけで共有し合ってるなんて、淫媚で気色悪いじゃないか、ということで、語れる範囲で語ることにしました。

 京都での安田南を語る時、絶対に外せないのが同志社大学でのコンサートです。
 このコンサートこそが京都での安田南人気、伝説を決定的にしたからです。
 当時、京都の人間で安田南を知っている人は、ごくごく一部の人たちを除いて殆んどいなかったと思います。
 中津川の一件なんて、フォークジャンボリーがあったことは知っていたとしても、その内容も、そこに安田南という名前も知らないジャズ歌手が出演していたということも知られていませんでした。
 かくいう私も、彼女がジャズ歌手であることを、コンサートの少し前まで知りませんでした。
 このコンサートの前年、同時期、同場所で笠井紀美子(with山本剛トリオ)、前々年には浅川マキ(with山下洋輔トリオ)があったのですが、これとは比較にならない観客動員力で、開演二時間前にはホールの周りを長蛇の列がズラリと取り囲んでいたのには驚かされました。
 同じ日に京都大学では、(これは意図的にやったと考えられていますが)安田南にぶつける形で、当時スウィングジャーナル誌の人気投票で女性ヴォーカル部門第一位だった中本マリのコンサートもあったのですが、伝聞ですが、こちらも問題外だったようでした。


   ここまで書いてきて何故かとてもつかれてしまいました。

   今日はここまでにします。

   コンサートの模様などは次回にしたいと思います。

安田南についての続編を送信しようとしましたが失敗しました。
 テストのためにこれを送ります。成功したら再トライします。
 長い報告だったんだけどなー

何故か送信に失敗。これはテストです。

何故か送信に失敗。これはテストです。

安田南の京都  2 伝説同志社大学コンサート 続

 安田南の同志社大学コンサートは、無名のジャズ歌手だったにもかかわらず満杯の観客を集めました。
 それを可能にした理由のひとつには、当時の関西地区の気風があると思います。
 関西の、少なくとも若者たちには、反主流、反中央、反体制、反権力、ついでに反東京といった気風が強くありました。(今でもそうなのかなあ?)
 その結果、大金を稼いでるトップスターよりも、金はなくとも地味に頑張ってる半スター、アッパーグラウンドよりもアンダーグラウンド、メジャーよりもマイナーを好む、支持する(応援する)ムードがあったのです。
 その点で安田南は、メジャー誌のスィングジャーナルに載ってる笠井紀美子や中本マリあたりとはちょっと違う。だけど、ちょいと凄いって噂だぜ、といったあたりがまずひとつめの人気の理由だと考えられます。 
 とはいってもそれだけで無名も同然の安田南が伝説的なコンサートを残せるとは考えられません。
 一番の理由は別にあると私は考えていますが、それについてはもっと後で語ってみようと思います。
 そこで、まずは同志社大学コンサートにの実際の模様ついてお話したいとおもいます。 
 ‘73か4年、同志社大学学生会館ホールでそのコンサートはおこなわれました。
 この時の印象は強烈なもので、今でも〈映像〉として思い浮かぶほどです。
 
   <開演>
    まず山本剛トリオのやや長めの演奏が一曲。
    そしてしばらくすると、暗闇のステージにピンスポットライトが灯り、         その中に黒い革ジャンパー、パンツ、ブーツ姿の安田南がうかびあがりました。
    ショートカットのヘアースタイルで、とてもスリムなプロポーションでした。
    そして静まり返った会場の中、あれはスキャットというべきなのかハミングと  
いうべきなのか、私にはよくわかりませんが、無伴奏で、スローでフリーなテ
    ンポで唄い出しました。   
  〈サマータイム〉です。

    息を呑む静寂の中で唄い終わると、一瞬の間があって山本剛トリオのイントロ      が始まりました。
    一転して、力強く、ややアップテンポのエイトビートです。
    安田南は、ゆっくりとピアノに近寄り、とり出したタバコに火を点けました。
    煙が立ち昇った時、会場にため息ともどよめきともとれるざわめきが湧きおこ      りました。

    それだけで私達は持っていかれてしまったのです。

    もの凄い存在感でした。
    もの凄いオーラでした。

    誰もが声も出さず、半数は立ち上がり、ただじっとステージを見つめて         いたのです

     ついでながらのハナシですが、当然ホール内は禁煙なのですが、安田南はそう     いうことに、全く頓着している様子はありませんでした。
    ステージの間中右手にタバコ、左手にマイクというスタイルを通しました。
    ヘビースモーカーというのは本当です
   
   ハナシを戻します。
   彼女の独特な〈サマータイム〉が終わると、それまで無言だった私達は、我に返     ったように大歓声を挙げていたのです。

   その唄は、私がよく知っている、ジャニスの〈サマータイム〉や、その日以降時々    聴くようになったジャズ歌手達〈サマータイム〉とは、もう全く違うものでした。                             
   異端と言ってもいいかもしれません。                 
   とにかく〈南のサマータイム〉としか形容のしようが見つからないでのです。
   他の曲についても言えることですが、私達は、歌詞を暗記していないかぎり、 
   どういうことを唄っているのか、やはり全部わかるというわけにはいきません。 
   なにしろ英語です。
   しかしなにかが伝わってくるのです。
   私自身がこの時感じたのは、「ヤバイ、泣きそうや」という感じでした。
    どういうわけか、そんな感じになったのです。

   わかっているつもりでしたが、音楽はコトバだけではないんだということを、      ハッキリと思い知らされた瞬間だったとおもいます。  
   ここらあたりの感じは、当時の反戦フォーク好きの連中には理解不能だったろうな
   と思います。

   とにもかくにも
   会場中が凍りついたような静寂のなか、〈南のサマータイム〉を私達はただただ
   聴くというか、感じていたのです。

   この日安田南が唄ったのは、〈サマータイム〉のほか
   
      マイ ファニー ヴァレンタイン
      LOVE
      グッド ライフ
      サニー
      ティーチ ミー トゥナイト
      等々のスタンダードナンバー
      それにブルースを2~3曲
   全部は憶えていません。          
 
   当時、私はわかっていませんでした。
   この日以降、ジャズやジャズヴォーカルを聴くようになって少しだけわかって
   きたことがあります。
   それは、安田南が他の歌手とどこが違うか、ということです。
   
   安田南は、バンドのことを、ただのバックバンドとは考えてはいないということ
   です。

   通常、唄というのは、
   バンドのイントロがあって、
   ヴォーカルがあって、
   バンドの演奏があって、
   再びヴォーカルがあって、
   エンディング。
   
   というパターンを間違いなく踏むものです。
   そこでは、バンドはあくまでも"伴奏者“として位置づけられています。
   安田南の場合も基本的にはこのパターンを踏襲します。
   踏襲しますが、しかし、彼女はこのパターンからしばしば逸脱するのです。
    その時、唄と楽器が絡み合い、お互いのフレーズを引き出し合って、ある時は
   ある時は唄とドラムス(!)のデュオ、そしてピアノ、ベース、と、それぞれの
   パッションというか、よくわからないけど、そういったものをぶつけ合いながら
   進行してゆくのです。
    おそらく、唄、楽器ともにアドリブで進行しているので、もの凄い緊張感と、
   スリリングな空気が充満し、私達オーディエンスもその中に引きずり込まれて一
   体となって精神が昂揚したり、悲しくなったりするのだろうと思います。

   この日、アンコールに応えて、最後に彼女が唄ったのはブルースで、新しい恋人
   を得た歓びをアドリブの歌詞で、照れることもなく、堂々と、しかし少女のよう
   に初々しく幸せそうに唄い上げてコンサートは終了しました。


 そして、この恋人こそが、京都での安田南、その後の安田南の鍵を握る人物といっても
 大げさではないだろうと私は考えています。
 このコンサートの成功にも彼の存在が大きく関わっているのです。

  彼の存在と、彼との関係を考えることで、いろんなことが解けるのではないかと
  私は考えています。


  次回には、この恋人についても考えてみようと思っています。

安田南の京都  3 京都でのエピソードや恋人について等々

 73,4年当時、酒蔵かなにかを改造して造ったライブハウスで「拾得(じゅっとく)」という店がありました。駆け出しのブルースバンドやジャズのミュージシャンからプロまで、広く出演していた場所でした。
 ある日のこと、駆け出しも駆け出し、アマチュアもアマチュアのブルースバンドが演奏していると突然顔中包帯だらけのミイラみたいな格好の女性が、唄わせてくれ、と言ってステージに近寄ってきたというのです。
 その時唄っていた若いブルースシガー(男)は、ちょっと気圧された感じでマイクを渡してしまったそうです。
 ところが、このミイラ女がブルースを唄い出すと、場の雰囲気が一変したそうです。
 全然トロかったバンドも一変に引き締まり、ガヤガヤと飲み食いしてた客も、ん?、と音楽を聴く態度に変わったといいます。

 ミイラ女の名前を質すと、なんと安田南だということだったそうです。
 このミイラ女、顔がわからないだけに真偽のほどを疑うむきもあるようですが、私はこの話を聞いた時間違いなく安田南本人だと直感しました。
 同じ頃、彼女は恋人とオートバイで事故を起こして顔面包帯だった頃があったからです。恋人の方はどうかというと、全治半年とか1年とかいう重傷だったにもかかわらず5日くらいで病院を脱走してきましたから、もう化け物としか言いようがありません。

 安田南についての印象を語るとしたら、散々強烈な印象を撒き散らして、そしてこの恋人とともにオートバイに乗って京都からいなくなった、という感じです。
 もっと言えば、正直なところ京都から(同志社大学から)彼を奪い去っていなくなってしまった、という感じの方が強いかもしれません。
 
 やっぱりこの恋人(以後Mと呼びます)に触れざるを得ないようなので、今後は少々詳しくなるかもしれませんが、Mについても語っていきたいとおもいます。

 誤解のないように言っておきますが、先ほど“化け物”と彼のことを表現しましたが、それは比喩的な表現であって、決してゴリラみたいな男を連想するものではありません。
 
 むしろ繊細で、大変なインテリでした。見た目も小柄で細身、なお且つ、ハンサムと言っても外れではないとおもいます。
 ただ、理不尽な圧力や権威的な態度に直面した時のMは、信じ難いほどの怒りと、そし
て頑固さをあらわにすることを憚りませんでした。
 その態度は非妥協的なもので、誰がどう見ても勝ち目の戦いであっても体を張って闘うのです。
 その結果、色白で細面、どちらかというとハンサムであるにもかかわらず、Mには、血と暴力みたいな匂いが漂っていました。
 

 次回は、安田南がMと出会った経緯や、安田南にとって何故Mなのかを考えてみたいと思います。
 どの程度できるかは少し不安ですが~~

安田南の京都  3 京都でのエピソードや恋人について等々

 73,4年当時、酒蔵かなにかを改造して造ったライブハウスで「拾得(じゅっとく)」という店がありました。駆け出しのブルースバンドやジャズのミュージシャンからプロまで、広く出演していた場所でした。
 ある日のこと、駆け出しも駆け出し、アマチュアもアマチュアのブルースバンドが演奏していると突然顔中包帯だらけのミイラみたいな格好の女性が、唄わせてくれ、と言ってステージに近寄ってきたというのです。
 その時唄っていた若いブルースシガー(男)は、ちょっと気圧された感じでマイクを渡してしまったそうです。
 ところが、このミイラ女がブルースを唄い出すと、場の雰囲気が一変したそうです。
 全然トロかったバンドも一変に引き締まり、ガヤガヤと飲み食いしてた客も、ん?、と音楽を聴く態度に変わったといいます。

 ミイラ女の名前を質すと、なんと安田南だということだったそうです。
 このミイラ女、顔がわからないだけに真偽のほどを疑うむきもあるようですが、私はこの話を聞いた時間違いなく安田南本人だと直感しました。
 同じ頃、彼女は恋人とオートバイで事故を起こして顔面包帯だった頃があったからです。恋人の方はどうかというと、全治半年とか1年とかいう重傷だったにもかかわらず5日くらいで病院を脱走してきましたから、もう化け物としか言いようがありません。

 安田南についての印象を語るとしたら、散々強烈な印象を撒き散らして、そしてこの恋人とともにオートバイに乗って京都からいなくなった、という感じです。
 もっと言えば、正直なところ京都から(同志社大学から)彼を奪い去っていなくなってしまった、という感じの方が強いかもしれません。
 
 やっぱりこの恋人(以後Mと呼びます)に触れざるを得ないようなので、今後は少々詳しくなるかもしれませんが、Mについても語っていきたいとおもいます。

 誤解のないように言っておきますが、先ほど“化け物”と彼のことを表現しましたが、それは比喩的な表現であって、決してゴリラみたいな男を連想するものではありません。
 
 むしろ繊細で、大変なインテリでした。見た目も小柄で細身、なお且つ、ハンサムと言っても外れではないとおもいます。
 ただ、理不尽な圧力や権威的な態度に直面した時のMは、信じ難いほどの怒りと、そし
て頑固さをあらわにすることを憚りませんでした。
 その態度は非妥協的なもので、誰がどう見ても勝ち目の戦いであっても体を張って闘うのです。
 その結果、色白で細面、どちらかというとハンサムであるにもかかわらず、Mには、血と暴力みたいな匂いが漂っていました。
 

 次回は、安田南がMと出会った経緯や、安田南にとって何故Mなのかを考えてみたいと思います。
 どの程度できるかは少し不安ですが~~

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