矢沢永吉誕生への遥かな途

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サンタナが、ソウル・サクリファイスで鮮烈なデビューを世界に飾ったウッドストックにおいて、息抜きみたいにホッとさせてくれていたのがシャナナなんだが、シャナナの後に出演したのが、ウッドストック三日間のラストを飾るジミヘンです。まぁ、サンタナもジミヘンも、今回はどうでもいい、シャナナです。

シャ・ナ・ナ (Sha Na Na) は1969年から活動しているアメリカのロックンロール・ポップスグループ。発表曲のほとんどがカバーであるため、カバーバンドに近い存在である。ニューヨークのストリート出身と称し、金ラメ、レザー、ポンパドゥール・ヘアというルックス、オールディーズ・ナンバーやその流れをくむオールドスタイルのロックンロール、ドゥーワップなどをレパートリーにした歌とダンスで、1960年代の終わりに1950年代のストリート・カルチャーをよみがえらせた。日本においてもオールディーズ、フィフティーズを語る際には欠かせない存在であり、クールス、シャネルズ(後のラッツ&スター)などが彼らからの影響を公言している。



もうね、いきなりサングラス、グリースでリーゼントを撫で付けるシーンから、フィフティーズ全開バリバリですw



アメリカでは、シャナナというのは「懐メロバンド」という扱いなんだろう。ただ、日本ではコレを本気で受け取った連中がいた。ロックンロールのブームというのは、同世代的に日本でも「ウエスタンカーニバル」とかあったし、その後もグループサウンズが盛り上がったり、それなりに受け入れられていたものの、どちらも支えていたのは、ノボセやすいオネーチャンたちであって、最初から商業的に「仕組まれた」モノでしかなかった。女相手の音楽は、盛りが短い。グループサウンズというのも、一世を風靡したんだが、消えるのも早かった。グループサウンズのブームは、1967年から69年までです。なんでグループサウンズが一発屋で終わってしまったかというと、カネになると見て群がってきた既成の音楽業者が、寄って集って食い尽くしたからです。ヒット曲はみんな、既成の作曲家、作詞家が作った曲で、ネーチャン騙して売りつけようという姿勢が見え見えだったので、すぐにバレて消滅。以後、ロックはカネにならないマイナーな音楽だと、レコード業界では警戒するようになる。

ただ、洋楽ではロックは大人気であり、新宿などでは「ゴーゴー喫茶」に客がいっぱい集まっていた。ゴーゴー喫茶というのは、ビキニの女がクネクネと踊っていて、時にはトップレスでオッパイ出していたり、そういうのが売りなので、客は男ばかりです。こういう店では、サンタナとかCCRとか、当時人気のロックのコピーが、日本人のバンドによって演奏されていた。まだ日本語のロックというのはありませんね。で、この頃なんだが、日本語のロックは是か非か論というのがあったわけです。

この日本語ロック論争は、60年代末頃からニューロックという言葉が流行しており、つまりニューロック=新しいロック、これからのロックは、日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが議論された。ニューロック誕生当初、日本語はロックのメロディーに乗らないというのが定説であり、日本のニューロックは英語で歌うミュージシャン(主に内田裕也、フラワー・トラベリン・バンド、ザ・モップスなど)が主流で、英語で歌い海外で成功すというのが彼らの共通の目標であった。そこにはっぴいえんどや、ボブ・ディランに影響を受けフォークからロックに転身した岡林信康ら、日本語でロックを歌うアーティストの登場により起こった議論である。



フラワートラベリンバンドです。今は亡きジョー山中のカッコイイ姿が懐かしいw もうこの時代になると、ロカビリーとかロックンロールではない、ロックです。世界に通用するロックを、というので、一生懸命だった時代です。モップスというのは、元はグループサウンズとしてデビューしたバンドなんだが、ブームが終わってからも、1974年まで活動している。日本のロック創世記のバンドとしては、最も優れたバンドです。フラワートラベリンバンドと違ってヒット曲もあるしw



それにしても「日本語のロックは成立しない、英語で歌え」なんてホンキで討論していた時代があったとは、若い人は知らないだろうw しかも、内田裕也がそんな寝言を口にしていたとは、ロッケンローw

で、この日本語ロック論争に終止符を打ったのが、キャロルです。



キャロルは、シャナナがやっていたような、古臭いロックンロール路線だった。もともと矢沢はビートルズ的な音を志向していたところがあって、初期ビートルズのロックンロールに近い音ですね。

1971年、横浜のロック・バンド"ヤマト"を解散した矢沢永吉が、新バンドを作るために鎌倉で偶然出会った内海利勝を勧誘。その後やはり横浜のロック・バンド"ジュリア"を解散してぶらぶらしていたジョニー大倉がバンドマン募集のチラシを見て二人を訪ねて来るが、直後に自殺を図り精神病院に入院。退院後再び矢沢を訪ね、内海と3人でキャロルを結成。1972年8月、横浜のディスコ"ピーナッツ"でステージ・デビュー。蒲田のキャバレーなどで演奏活動を続ける。その年の10月フジTV「リブヤング」ロキシー・ファッション特集に強引に出演、一躍注目を浴びる。革ジャンにリーゼント・スタイルでストレート・ロックンロールを演奏する彼らを見て、共演していた内田祐也はリハーサルから彼らと一緒に踊りまくる。この番組を見ていたミッキー・カーチスにプロデュースを申し込まれ、12月には「ルイジアナ/最後の恋人」でレコード・デビュー。

キャロルというのはジョニー大倉と矢沢永吉のツインボーカルです。映像は解散コンサートの時のものなので、クールスの連中が場内整理してます。クールスというのは、元はバンドではない。単なる「暴走族」です。今みたいに不良が暴走族を名乗って悪さをするというんじゃない、本当にバイクが好きで、やたら走り回っていた連中。何故か、こいつらがキャロルの親衛隊をやっていて、押し寄せるファンの頭をモグラ叩きみたいにボコボコ叩いていた。と、やっとキャロルまで辿りついたところで、長くなるので、以後次回。つうか、台風です。「たどりついたらいつも雨降り」by,モップス。

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代々木公園の原宿門付近でいまだにリーゼントに革ジャンとかで踊ってる人たちがいます。どれどれと見に行ったら近づくにつれどうも年季が入った感じで、中にどうみても還暦過ぎだろ?って感じのおじさんが居ましたw

そしてその流れは横山剣率いるクレイジーケンバンドに。

キャロルって半島人のバンドじゃねえか。
力道山を日本人だと思って応援してた爺婆と同じように、また日本人は騙されたでござるの巻。

私、高校生だった頃、現代国語の指導教官が矢沢ファンで、半年間くらい、成りあがりISBN-10: 4041483018が教科書でした。

私、授業料払ってなんでこんなくだらない本読まされなあかんのかと抗議したら半年後、授業料未納で除籍とか言われて、
いろいろ騒ぎが大きくなったけど、今はまじめに健康福祉増進に貢献してる仕事で頑張ってる不思議なんです。

今も、当時の現代国語の教官は屑だったと思う。
矢沢も屑だ。奴が出るソニーの宣伝を見ると吐き気がする。


僕が除籍にならないように頑張ってくれた先生方、事務長さんに感謝するからこそ、僕は今も頑張ってるし、授業料滞納したとき、大阪府の役人相手に貧乏事情を説明し、法律の勉強していた両親にも感謝してます。

一緒に働いた西海岸の大工たち、酒飲みながら一緒に女のケツ追っかけまわしてた兵隊たち(現在の推定年齢45~65)、こやつら全員どっちかっていうとミドルからは下に属する連中なんだけど、とにかくみんなが欠かさず聴いてたのが・・・

ボブ・シーガー&ザ・シルバーブレット・バンド

アメリカでは神クラスのロックン・ローラー
日本ではほとんど無名

この人の歌、歌詞がどれもカッコいい
商業主義になじまなかった本物の漢

モップスの名曲(拓郎の曲だけど)がでてきたので、CCRの「雨を見たかい」にひっかけて、その「雨」はベトナム戦争のナパーム弾のことだと書こうと思ったら、そうではないことが分かったので、エンケンの「外は雨だよ」を貼ってみる。
第1期エンケンバンドのときの演奏はMC5のようで、そっちの方が好みであった。
新宿近辺、そろそろ雨が降ってきました。

>日本語のロックは是か非か論というのがあったわけです。

大昔もオペラと言えばカンツォーネに代表されるイタリア語のみだったわけで
ドイツ語なんかは荒々しくてオペラには向かないと言われていたもんです(知らんけど
それをモーツァルトが「後宮からの逃走」でドイツ語オペラを完成させ「魔笛」で
一気に昇華させたわけですね(魔笛は正確にはジングシュピールですが)
歴史は繰り返すというかどこも同じですね。

しかし、内田裕也が日本語に反対したっていうのはよくわかります。
彼は本当に常識人ですね、良くも悪くも逸脱できない。
逸脱しているふりをしているだけなのですぐに馬脚を現すw


それだけ日本語のロックに反対していた内田裕也が、キャロルがデビューでTVに初出演した時には、リハーサルから一緒に踊っていたというのが、また、何とも内田裕也らしいw やっぱり、愛すべきロック馬鹿です。

所詮ブームに過ぎなかったフラワー・チルドレンたちの
唖然とした顔がおかしい。マジかっくいいっす。

英語で歌うかどうかではないですが、80年代にも邦楽か洋楽かの
小競り合いがありました。


邦楽っつってもタノキントリオとか、少年隊とか、要するにグループサウンズの
さらにアイドル版ですが、あまりにもレベルが低かったんで洋楽に走る人たちと、
レベルの低いアイドルに群がる腐女子での論争だったように記憶しています。


そんな中、自分が最初に購入したアルバムはホール&オーツのBig Ban Boomでした。
田舎者だったんで、外国のミュージシャンのものを買うというので
すごくドキドキした記憶があります。


その当時はアイドルくらいしか、日本側から提供されるコンテンツがなかったので、
洋楽に走ったわけですが、もしサディスティックミカバンドなんかがその十年前に
すでに存在したのを知ってたら、音楽の志向も相当に変わってただろうなと思ったりします。


その後、90年代に入って、日本のロックは確立されていくんですが、
インディーズでX(現X JAPAN)とかの登場を目撃したのは感慨深かったですね。

おっしゃる通りだと思うけど、私はロックンロールが大好きです。
矢沢永吉は、(私の好きな)50年代のロックとはかなり違うけど、それなりに良い所もあると思います。
何事によらず、趣味を仕事にすると、(自分自身が)つまらないですね。

大昔、新宿厚生年金会館にシャナナを観にいきました。その時の前座がダウンタウンヴギヴギバンドで、何でこいつ等出るの?って感じで興醒めしたことを覚えています。シャナナのステージは何時でも何処でもそのまんま、サイコーでした。

>ティンパニーファイブ

簿記の3級の勉強は終わったかな?
宿題もやらずにインターネットばかりしてちゃだめよw

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